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Image training

2009年06月01日 22:26

そういえば前回の記事で「柊かがみは俺の嫁」という言葉を最期に遺したのだが、その「~~は俺の嫁」という言葉について考察したいと思う。

そもそもそんな言葉が生まれたのには、日本のアニメ等の映像技術の発展が大きく影響しているのだろう。

そしてサブカルチャーへの関心の強まり。(まぁ、未だアウトローな存在なのだろうけど)

「~~は俺の嫁」と言ってる人間がいたら大半の人間は眉を顰めるのだろう。

それは重々承知している。

そりゃそうだ。僕たちは画面や誌面の中に入ることは出来ない。それは当たり前のことなのだから。

そしてその当たり前に反する行為をしている、と見なされている。

つまり、眉を顰める人間が大半であることは仕方ないのかもしれない。

しかし、その”当たり前”というものは一体どこで作られたのだろうか。そもそも”当たり前”という言葉を世界に定義付けるとするならば、それはどのような表現を為されるべきなのか?

”当たり前”なんて言葉は僕ら人間が古くから築き上げてきたものにすぎない。すなわち、僕ら人間が物理的に不可能であると見なし、それ以上の発展を望まなかったものが”非常識”として見なされる。そうなってしまった時点でそれ以上の思考をしようとは考えない。

その結果、「~~は俺の嫁」なんていう言葉は非常識そのものであり、その言葉を使う者は煙たがられる対象となってしまう。

僕はそんな状況に警鐘を鳴らしたいと思う。

人間が憎しみ合い、果てには武力行使に出てしまうのは何故だろうか。いじめがいつまでたっても無くならないのはどうしてだろうか。

それは絶対的な”想像力”が足りないからである。

人間には「想像する」という能力がある。

そのようなことをしたらどうなるのか、ということを想像できない人間が最近は多い気がする。

それは完全なる想像力の欠如。

つまり、「想像する」という行為は世界平和に繋がるというわけだ。パーフェクトなわけだ。

本題に戻るとしよう。「~~は俺の嫁」という言葉がそういう点では、その「想像する」という行為を進んで行っているということ。人間は使われない能力は退化していってしまう。しかし、僕らは違う。間違いなく「想像する」ということにおいて進化していっているのだ。

だから僕は高らかに言わせて貰おう。

「柊かがみは俺の嫁」


そして、


「Mr.stickは空気嫁」






二木佳奈多は俺の嫁。
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